刀田山鶴林寺
 高麗(こま)の僧、恵便(えべん)法師は、物部氏ら排仏派の迫害を逃れて、この地(播磨)に身をかくした。聖徳太子は恵便法師(えべんほうし)を慕い、その教えをうけるため、この地に来られた。のち、秦川勝(はたのかわかつ)に命じて三間四面の精舎を建立し、刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが鶴林寺のはじまりであると伝えられている。

 その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」(むとべはるのり)が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立し、さらに9世紀の初め慈覚大師円仁が入唐の際に立ち寄られ、薬師如来を刻して国家の安泰を祈願された。

 天永3年(1112年)に鳥羽天皇から勅額をいただき、以来「鶴林寺」と寺号を改め、勅願所に定めらた。

 鎌倉時代、室町時代と太子信仰の高まりとともに、鶴林寺は全盛時代をむかえ、寺坊30数カ坊、寺領25.000石、楽人数十名が常に舞楽を奏していたといれれたが、戦国時代にいたって、信長、秀吉らの弾圧、さらには江戸幕府の厳しい宗教政策のため、衰徴の一途をたどらざるを得なかった。


 
 聖徳太子はあつく仏教を信仰され、三つの経典の解説書を書かれたが、鶴林寺はそのうちのひとつ『法華経』講讃の寺として知られている。天台宗の開祖である伝教大師最澄上人も深く聖徳太子を讃仰され『法華経』をよりどころの経典とされた。したがって鶴林寺は、『法華経の寺』といっても過言ではない。

 天台宗鶴林寺は、加古川市街・尾上街道と鶴林新道に囲まれた一角にある。「刀田の太子さん」と親しまれている。『刀田』は山号、「太子さん」とは鶴林寺を創建した聖徳太子のこと。「播磨の法隆寺」とも言われている。

 仁王門から正面が国宝本堂。前庭に菩提樹と沙羅の木。釈迦涅槃(入滅)のときに、沙羅の木が、まるで鶴の羽のように真っ白に枯れたという伝説がある。鳥羽天皇が「鶴林寺」の勅額を下賜し、寺名となった。「鶴林」とは釈迦 涅槃の「沙羅双樹の林」を意味する。


鶴林寺縁起
鶴林寺と聖徳太子

 鶴林寺がいつ、どのようにしてつくられたかは、実はよく分からない部分が多い。手掛かりとなる古い瓦や礎石などは発見されておらず、播磨一円のこのことを書いた峰相記にも、なぜか記録がない。しかし、記録としては江戸時代のものといいわれる「鶴林寺縁起」に、つぎのような歴史がうかがえる。

 蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はその恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ「刀田山四天王聖霊院」と名付けられる。崇峻天皇2年(589年)、これが鶴林寺の始まりとされている。

 その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立した。

 そして、天永三(1112)年に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。太子堂はこの年の建立と伝えられている。太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったという。鶴林寺の宝物館には今も、雅楽に使う大きな太鼓の一部が展示されているが、当時は、太子の命日には雅楽が奏され、舞楽が演じられたという。

 ところが、信長、秀吉による宗教弾圧と続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減し、明治維新の排仏棄釈など、時代の荒波を潜り抜け、今日、宝生院、浄心院、真光院の3カ寺、15,000坪の鶴林寺となった。

  広がった法隆寺文化

 再び遡って考えてみるが、恵便を太子がどのように扱ったかもよく分からない。ただ、蘇我・物部氏の争いが終わり、聖徳太子はさらに仏教を深めるために朝鮮半島から高僧を招く。そして、恵便は播磨に帰り、実践僧として各地に寺を建てたのではないだろうか。

 続日本書紀に「印南野臣」だった牟射志(むさし)が太子の馬司となったために「馬養造」に変わったというくだりがあり、この地域が太子と近い関係だったことが分かる。また、西条山手の国指定史跡の行者塚古墳から日本で最古級の鉄製の馬のくつわや帯金具が出てきたことから、大陸文化がいち早く入った先進地であり、中央に強い発言権を持つ豪族がいたことも分かる。

 聖徳太子は、法華経、勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経の三経義疏を残し、うち法華経は中国の経典の解釈を越えるものと評価されている。また太子が天皇に講義をしたところ、いたく感激され、天皇が播磨の水田百町を授けたと日本書紀にある。

 加古川市内には、法隆寺と同じ伽藍(がらん)配置を持つ寺院があった。七世紀末から九世紀にかけての西条廃寺、八世紀前半から九世紀の石守廃寺、七世紀末から九世紀にかけての中西廃寺などで、法隆寺文化の広がりがうかがえる。しかしそれらはすべて九世紀で一度終わっている。それは868年の播磨大地震ですべて倒壊したからであろう。

  平安時代に再興?

 ところで、鶴林寺がその地震までどこにあったのだろうか。別の場所にあったのか、ここにあったのかを特定することはできない。しかし、本堂の重要文化財・薬師如来と両脇侍像や、厨子(ずし)の下の土壇、十一面観音立像などは平安前期のものであり、太子堂や常行堂で最近の赤外線調査、多くの聖徳太子伝などの史料を照らし合わせると、平安前期に今の場所に平安本堂があったようだ。

 また聖徳太子が、天台大師・智の師匠の南岳慧思禅師の転生だとされたために法華経を深めたことなどが、鑑真の弟子の思託が著した「上宮皇太子菩薩伝」にあり、最澄も太子が開いた四天王寺を非常に大切にした。このような太子信仰と天台宗が強く結びついて、鶴林寺は、再建されたのではないかと考えられる。



年号
出来事
585

565年に高麗より来朝していた、僧恵便が加古川で身をかくしている際、12歳の聖徳太子
が大和からはるばるこの地へ足を運ばれ「木の丸殿」をつくり恵便の教をうけられたという。

589
太子14歳の時、馬子がついに守屋を滅ぼし、太子が守り本尊を抱いて軍中に加わり、戦後攝津の四天王寺を建立する。太子16歳のおり、賀古の郡においても三間四面の精舎を建てられ、釈迦三尊四天王をまつられました。これが四天王寺聖霊院といわれ、鶴林寺の前身である。
718
太子の遺徳を顕彰するため、寺域を拡張し、七堂伽藍を建立。
寺号も刀田山四天王寺と改められた。
852

第三代の天台座主円仁(慈覚大師)は中国に渡る際、寺へ立ち寄り立願成就のために諸堂の修理を行なった。
このときより刀田山は天台宗となった。

12世紀始め
鳥羽天皇は刀田山を勅願時に定めるとともに「鶴林寺」の扁額を下賜された。
国宝の太子堂や重要文化財の常行堂がつくられる。
鎌倉時代
太子信仰が広まり、重要文化財の聖徳太子像、聖徳太子絵伝慈恵大師像が描かれた。
室町時代
植髪太子像等が作られた。
国宝の本堂以下行者堂・鐘楼・仁王門・三重塔・護摩堂もつぎつぎと造営され、このときの寺領は25,000石、境内は方二四丁僧坊は3百。また奉仕する衛士は百余人、楽人は数十人であったと伝えられた。
戦国時代
社寺はこのころ多くが焼かれ破壊されたが、信長への寺領差し出しにより幸に免れ、今にそのあとを伝えている。
現代
遠い白鳳の時代から平安・鎌倉・室町の各時代に亘る数々の文化財を、このように残しているところは兵庫県のどこにもない。
太子の尊い事績と歴代文化のあとを如実に知らせてくれるお寺として、心のやすらぎと信仰の道場として現代に親しまれている。